第43回来日公演
「テンペスト」
"The Tempest"
あらすじ
"We are such stuff as dreams are made on, and our little life Is rounded with a sleep."
我々は夢と同じものから作られている、そしてはかない一生は眠りによって閉じられるのだ
大嵐に逢い、乗っていた船が難破したナポリ王・アロンゾーとミラノ大公アントーニオの一行は命からがら孤島に漂着する。その島には、かつてはミラノ公爵でありながら実の弟アントーニオの策略により国を追われたプロスペローが娘のミランダとともに暮らしていた。不思議な魔法の力を持ち、精霊たちを従えながら、魔術や学問の研究に没頭して生きるプロスペロー。アロンゾーたちの船を襲った嵐も、そんな彼が十二年前の復讐をするため手下の妖精エーリアルに命じて起こした魔術によるものだった。
アロンゾーの息子・ファーディナンドは王の一行と離れ離れに一人岸に打ち上げられる。父を失ったと考え悲しみに暮れるファーディナンドだが、プロスペローの計らいによって出会ったミランダと一目でたちまち恋に落ちる。しかし、その日から愛の試練としてファーディナンドは数々の過酷な労働を強いられるようになる。
一方、息子が死んだと思い嘆き悲しんでいるアロンゾー。その姿を見て、更なる出世を目論む野心家のアントーニオはアロンゾーの弟・セバスチャンにアロンゾーを殺し王位を奪うことを唆す。
また、島に住む醜い怪獣キャリバンは、別の場所に漂着した道化師トリンキュローと賄方ステファノーを味方につけ、日頃の恨みからプロスペロー殺害を企てる。
精霊と人間たちそれぞれが心に抱く復讐、野心、そして愛。その行き着く先とは…?
インターナショナル・シアター
カンパニー・ロンドン
(ITCL)
ロンドンを拠点に、世界で公演ツアーを行い、独特な演出で世界中の観客を魅了しているインターナショナル・シアター・カンパニー・ロンドン(以下ITCL)。今年、5月に43回目の来日公演が実現します。
今回は、シェイクスピア作品の中でも人気・知名度の高い「テンペスト」を原語上演。長年に渡る海外での英国文学作品普及に追力した功績に対して、英国王室より勲章を受賞したポール・ステッピングが脚本と演出を務めます。
日本で行われる数少ない原語公演(英語)。日本にいながら、一流の海外演劇を鑑賞できる貴重な機会。原語上演だからこそ味わえる、シェイクスピアの持つ言葉のリズムや雰囲気をご堪能ください。
「テンペスト」-演出家より
我らは夢と同じ糸で織られているのだ、ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる
(福田恒存訳「あらし」より)
テンペストはまさに夢の様な芝居です。悪夢の様に執拗で、白昼夢のように魅惑的です。また、文学や芝居を好む全ての人々の琴線を掻き立てます。この芝居は、シェークスピアが真に偉大な芸術家達の中で占める位置を確かなものにしています。なぜなら、それはミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画やベートーベンの第九交響曲の様に、一生を捧げた締めくくりの仕事だからです。
プロスペロー、キャリバン、エーリアルという登場人物に、私たち誰もの内にひそむ性格が露呈されています。では何故この芝居は、しばしば不満足な結果に終わってしまうのでしょうか?舞台の規模は、リア王の劇を上回る程のものでもなく、劇中の動きは非常に簡潔で、まるでシェークスピアがアリストテレスの説を究極的に受け入れて、時間と空間の一致性に従ったかのようです。戯曲、喜劇、詩と歌が絶妙に組み合わさっているにも拘わらず、なぜよく上演がつまずくのか。キャストとディレクターは、エーリアルの優美さと迫力によって劇を飛翔させることは可能なのでしょうか。
私はプロスペローの複雑さに問題の一部があると思っています。現代の上演の多くではこの追放にあった魔術師は、不愉快な存在とされ、絶えず動き回っているエーリアルと彼の泥臭い好敵手キャリバンに好んで焦点が当てられ気味です。
ほぼ100年間、キャリバンは悲劇の主人公として、また奴隷制度と植民地主義の邪悪さの例えとして、舞台の中央に抜け目なく登場しています。まるでキャリパンの陰謀が成功し、彼こそがこの(劇中の)島の王であるかのようです。たいていのシェークスピア劇の安易な解釈では、このように他の全ての場面を無視し、ほんの数場面のみを際立たせているのです。キャリバンは確かに人間に内在する獣性を表わしています。レイプや殺しもするでしょうが、そのような邪悪な能力を持たない彼には贖罪が許されています。エーリアルも自由に憧れますが、彼の隷属はプロスペローに負うために、強要されたものではありません。それは、プロスペローがいなければ、彼は永久に木の間に挟まって悶え苦しんでいたからです。私たちが作者のこれらの見解を受け入れ、劇中の混乱を止めれば、この劇の中心人物、支配者であるプロスペローを自由に考察することができます。プロスペローはこの島で何をもくろんでいるのか、シェークスピアは彼の最後の作品の、自伝的主人公をどう扱おうとしているのでしょうか。
プロスペローは、何でも思い通りにすることができるスーパーヒーローであり、熟練した魔術師ですが、彼の魔法は眠りに誘い込み、幻想を見せるものです。プロスペローは現実の世界を変える必要があり、夢の世界でのみ生きて来た娘(冒頭、彼が自分の過去を彼女に語る内に、彼女が眠りに落ちそうになる理由はここにあります)を救う必要があります。幻想の世界に生きることは良いことではなく、プロスペローは現実世界に戻りたいのです。そこでは彼の魔術など通用しない。彼は魔術の書物に没頭し過ぎて、ミラノ国から追放されてしまったのです。
プロスペローは自分の魔力を破壊して現実の世界に戻らなくてはならないし、自分の娘を現実世界の若者に嫁がせなければならないのです。たとえその若者が彼の敵の息子であっても、いや実際のところ敵の息子であるからなのです。ここで「許し」というテーマの登場です。魔術師の大御所であるプロスペローには絶大な力があり、暴力的な復讐にそそのかされます。年老いた父親でもあるプロスペローは「許し」によって平和を求め、彼の妖精である家来と、魔法にかかった娘を自由にする必要があります。慈悲の心のみが彼の積りに積もった怒りを解きほぐし、彼の宿敵の息子と、彼の娘との結婚で生まれる子供によってのみ、ナポリとミラノが統一されるのでしょう。(これが第四幕の豊穣の仮面の踊りの意味するところなのです)
シェークスピアの他の劇の多くに登場する王や王子は、いかに統治し、いかに賢い王になるかを学ばねばなりません(ハル王子、エドガー、マルカム王子、オクタヴィアス等)。しかし「テンペスト」という作品では、プロスペローは自分自身から学ばねばならず、また自分はミラノ国の模範統治者ではなく、(発禁?の)本から得た知識に取り憑かれてしまった男だと認めなければならないのです。彼のせいでミラノ国には政治的空白が生じ、弟の裏切り、更にはナポリ国の侵略行為に遭ってしまいます。プロスペローは、今は小さな島を絶対的な権力で治めていますが、それも所詮は幻想と、魔法の夢にすぎません。
ですから彼はまずその魔術の書物を放棄し、慈悲の心を起こして正義を果たします。そして、彼はついに理想的な統治者となり現実の世界のみならず、彼自身の苦しみ抜いた頭脳に秩序を取り戻すことができるのです。そこまでは順調なのですが、劇の真髄はサイコロの次の目にあるのです。プロスペローは、妖精の家来たちを解放し、敵を許した時、彼は悟ります。現実の世界は真に現実のものではなく「夢から作られた世界」だと。そして彼の行動はひとつの夢にすぎず、それに対して唯一の現実は死であり、それがすべての行動の終わりだと。この悟りにより、彼は自ら絶望に追いやられ、自分の考えを強く示すために私たちに魔法をかけていた世界から外へ踏み出して行くのです。プロスペローという主役を演じる俳優が、人生そのものが錯覚であると聴衆に示します。すなわち、劇の上演と、俳優自身さえもが虚構であり、幻想であり、はかない一時にすぎず、そこでは人生は芸術の模倣であり、それゆえ現実と虚構の境目がわからなくなってしまう場所なのだと。
さて、この劇では何が比喩として中心に語られているかというと、テンペストは人生の嵐ということです。つまり、我々は嵐が静まっても平穏無事ではいられず、むしろ「夢と同じ糸で織られている」という内なる真実に立ち向かわせられるということなのです。
ITCL芸術監督
ポール・ステッビングズ
2015年