シアター&プロダクション

監督ポール・ステッビングズのコメント/ワイルドとこの作品の背景

『カンタヴィルの幽霊』の原作者はオスカーワイルドである。その流麗な文体の中には、きわめて複雑なある真理が隠されている。一体『カンタヴィルの幽霊』とは子供のお伽噺、寓話、英国と米国を軸にした風刺、ゴシック怪奇小説のパロディー、子供から大人への成長を扱った物語なのか?多分この全てだと言えよう。この短編小説の劇化にあたり、種々のテーマを単純化しない様にと試みたつもりだ。

オスカーワイルドは言わば二重の人生を生きたといえよう。英国人の中で生きたアイルランド人、確立された秩序への反骨者、異性愛のみが正常とされた不寛容な社会での同性愛者だったのだから。ワイルドは好奇の目に晒されながらこの二重の生を生きたといえる。その際立った才能とウイットで彼は生きのびたのだ。あえて自己を規制の秩序の下での裁きの場におき、ロンドンのシアターを君臨したのみでなく、自分自身の生を劇場にしたのだ。不幸にも自己のロールを信じて疑わず、裁判では尊敬に裏打ちされた自己のイメージを弁護することに努めたのだ、心の奥ではそうすることが偽りだと知っていたのだが。虚偽が剥がされたとき、演戯は終わり、投獄と早すぎる死がワイルドの報酬だったのだ。

『カンタヴィルの幽霊』は彼が破滅に陥った裁判の4年前に書かれている。それは単に「ものがたり」として出版され、意図した読者層の年齢などについては触れていない。あの陰りある『ドリアングレイの肖像』とちょうど同じ時期に書かれている。英国の貴族社会の愚かしさや嫌悪感、同時にアメリカ人の無作法や鈍感さなどが描かれている。思春期のアメリカの少女ヴァージニアが体験する不思議な出来事の後で、彼女はある啓示を得るのだが、ワイルドの共感はこの少女にむけられている。我々はこの出来事に焦点をあて、最後に少女との結婚に至る公爵の役割を重要なものにした。これがワイルドにとり、一番重要なテーマの様に思われる。そしてこの「ものがたり」を読み、ある解釈を試みる者なら誰でもこの最後のパラグラフを受けいれることになるだろう:

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「君は秘密をもっている」と公爵は微笑みながら答えた。「幽霊と一緒に閉じ込められたとき、
どんな事があったのか、まだ一度も話してないじゃないか」

「セシル、それは誰にも話していません」とヴァージニアは厳かに言った。

「それは解っている。でも、ぼくには話してくれてもいいじゃないか」

「どうか訊かないで、セシル。あなたにもお話できません。かわいそうなサー・サイモン!

わたしあの方にずいぶんご恩を受けているの。笑わないで、セシル、ほんとうなのですもの。
あの方はわたしに<生>とは何か、<死>とは何か、そして<愛>がそのどちらよりも強いか、
をわからせて下さったのです」

公爵は身を起こしていとしげに妻に接吻した。

「ぼくが君の心をもっている限り、君は君の秘密をもっていても構わないよ」
と彼はささやいた。

「わたしの心ならいつだってあなたのものですわ、セシル」

「そしていつか、ぼくたちの子供には話してくれる?」

ヴァージニアは思わず頬を染めた。

* * * * * * * * * *

物語を劇化するにあたり、公爵が彼の妻に投げた質問にどう対処するかが重要だ:

「ヴァージニアが幽霊と一緒に閉じ込められたとき、何が起こったのか?」

これはお伽噺にしてはかなり荒削りで不透明なフィナーレであるし、ワイルド自身の悩みぬいた欲望を反映している。それは真実を隠すという見事な技にもかかわらず、真実を伝えたいということの現れなのだ。

魅惑的なお伽噺は唐突な終末となる、ここには倫理的な判断は見られない、何故なら“頬を染めた”ということは“恥”の行為ではないからだ。ヴァージニアは明らかに公爵より賢く、閃きと叡智をもっている。
この精神の明晰さを彼女は幽霊との出会いで得たのだ。ワイルドは読者を謎の中においたままだ。

しかし彼はある危険なゲームをしているのだ:彼の隠されたテーマは、その秘密の人生と同じく明らかにされるだろう。ドリアングレイと違って、オスカー・ワイルドは自己の真実を屋根裏部屋のキャンバスに隠しておくことはできなかったのだ。

『カンタヴィルの幽霊』はその矛盾と回避にもかかわらず、お伽噺なのである。然し「子供のお話」ではない。ワイルドの才能あってこそ、恐怖感を秘めた複雑な現代のお伽噺が生まれたのだ。これはグリム兄弟やハンスアンデルセンの物語に近いともいえるだろう。

ワイルド独特の巧みさを生かし、この物語のテーマを現代人にも分かる様にと試みたつもりである。
物語の風刺性を現代風に蘇生させた。またプロットやテキストを変えた部分では、まずワイルドの本質を損ねないということが第一の条件だった。

Paul Stebbings. August 2008

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ポールのコメントについて:

原作を読んだ後にポールの脚本を読み、ある疑問を提示した。彼はメールで次の様に答えてくれた。“僕とフィルはこの作品に<徹底的にメスをいれた> <I and Phil employed radical surgery …>”と。原作ではオティス氏は米国公使という上流階級であるが、脚本ではアメリカの開拓精神をもつ、オティス・ママ一家となっている。彼女は酒場のダンサーで子供たちも文法をわきまえない英語で喋るし、マールブロの広告の様にカウボーイのイメージが横溢している。

然し、アメリカ公使としてのオティス氏が始めて幽霊に憑かれている城を買うべく英国の公爵と話しをする際に、”But there is no such thing, sir, as a ghost, and I guess the laws of Nature are not going to be suspended for the British aristocracy.” 「幽霊というようなものは断じて存在しません。自然の法則はたとえ相手がイギリスの貴族だろうと遠慮しないはずです。」と平然と幽霊の存在を否定する。公使の言葉は上流階級のものだが、アメリカ人が全てを「常識のフレームの中で解決する生き方」は脚本でもママ・オティス・一家が幽霊に対峙したときに即座に現れる。

ポールによると上流階級同士の対決ではこの短編は劇にならない、二つの文化の風刺コメディにするにはアメリカのアイデンテイテイとして「Wild West」が必須だとする。確かに「家具、蜘蛛の巣、悪天候、面白そうな幽霊など、ひっくるめてお城を買いましょう」と即座にキャッシュをだすママ・オティスは風刺に明快なリズム感を出している。上流階級の英語でアカデミックな知識に基づいて、知的で哲学的な対話ではこのリズム感はでないだろう。

ヴァーニアは幽霊との出来事で啓示を得るのだが、二人でどこに消えたのかと質問する公爵と彼女のやりとりは、ポールに言わせると「唐突で荒削りな」終末だとしている。

然し、物語の最後でヴァージニアは公爵の質問、「幽霊と何があったの?」に対して“I have not told any one, Cecil.” said Virginia gravely. 「それは誰にも話していません」と厳かに答える。肝心なことは何をしていたかという「事実」ではなくて、この厳かな答えの後で、公爵が「愛がある限り、秘密を聞きだす必要はない」というとき、彼は愛の本質を悟ったということだ。つまり、「事実」ではなくて、ある重要な真理が示唆されていて、この作品の結末として、rough (唐突)だとはいえない。

二人が何をしていたかは重要でなく、彼女の毅然とした答えが全てを物語っており、「事実」は読む者の解釈、想像力に任せればいいのだ。

幽霊が霊力を失い、メランコリックに沈んでいるとき、手をさしのべたのはヴァージニアだし、原作では彼女の絵の具箱から“赤色”を盗んでいたのは幽霊だ。「殺すのは悪いことよ」と毅然として幽霊をきめつけるヴァージニアは言う。

”It is very wrong to kill any one” said Virginia, who at times had a sweet Puritan gravity, caught from some New England ancestor.
このヴァージニアの声には、ニューイングランドの遠い先祖から受けついだものでもあろうか、一種魅力あるピューリタン的な威厳があった。

ポールの言うようにワイルドは16歳のアメリカの少女に一番共鳴している。

ところで『アーサーヴィル卿の犯罪』の序文でホルヘ・ルイス・ボルヘスが述べているが、“….『カンタヴィルの幽霊』はゴシック小説に属するが、読者にとって幸いなことに、扱いはそうではない。この愉快な話しにおいて、アメリカ人たちも読者も幽霊を真面目に受け取っておらず、ワイルドもアメリカ人たちを真面目に相手にはしていない。『幸せの王子』、『ナイチンゲールと薔薇』、『わがままな大男』はお伽噺であるが、グリムの純粋な流儀を思わせるところもなければ、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのセンチメンタルな様式を思わせるところもなく、まさにオスカー・ワイルドだけに帰せられるあの憂愁のアイロニーにとっぷりと浸されているのである。”

“ワイルドが死んでほぼ八十年経つ。彼の時代はわれわれの時代から遠く去って、すでに博物館入りしてしまった。
しかし、悲しい運命を背負い、幸福な魂を抱いていたこのアイルランド人はわれわれの同時代であり、未来の幾世代の人々にとってもそうでありつづけるであろう。彼のメッセージ、彼の無敵の幸福が、われわれの記憶の中に、ちょうどあのデンマークの王子のような悲劇のダンディーとしての彼の姿を、消えることなく刻印しているのである。”

ボルヘスが指摘している様にこの作品は幽霊のメランコリーとヴァージニアの魅力的な威厳さあってこそ、幽霊という陰惨なイメージとは程遠いお伽噺として我々を楽しませてくれるのだ。

※『アーサーヴィル卿の犯罪』
 (O・ワイルド 矢川澄子・小野協一訳) 図書刊行会 p.13

(文責: 渡辺三千代)

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